国指定重要無形文化財 幸若舞 奉納上演

立烏帽子 袴表引き小刀 素袍の袖で張って舞いつつ 白秋
【 ご案内 】
開催日時
  • 平成16年 1月 20日
  • 11時30分 開式
  • 12時00分 開演
開催場所
  • 福岡県山門郡瀬高町
  • 大江天満神社 舞堂      
演  目
  • 濱出、日本記、扇の的
  • 八島、和泉ヶ城ほか
交通機関  JR瀬高駅より徒歩20分、JR瀬高駅よりタクシー5分
周辺地図  アクセスマップ はここをクリック
主  催  大江幸若舞保存会

 日本最古の舞楽として約700年の伝統をもち、日本芸能の原点といわれている「幸若舞」が2004年1月20日に瀬高町大江の大江天満神社の舞堂で奉納上演されます。

幸若舞の舞台
日本最古の舞はるかなる夢の伝言

「それは、鎌倉時代のこと。播磨守義兼から数えて4代目、直常に直信という3男坊がおったそうな。この直信、幼名を「幸若丸」といい、幼い頃から比叡山に上って稚児となり、草子を読み習って学術に努めていた。10歳になっていたのかいないのか。育ちのよさに加えて、利発な少年であったわけである。

 その頃、雲上双紙という、今でいえば"舞の本"があり、これに節拍子をつけて双紙舞を遊ぶものが多かった。天才的に口拍子が達者であった幸若丸は、その双紙舞にたわむれに新たな節拍子をつけたところ、人々はたまげてしまったのである。とにかく見事。

 となると、噂は噂を呼び、天聴まで届いてしまう。宮中に召された幸若丸は、自分で創作したその舞を上覧に供したところ、帝はいたく感動。単に"舞"と呼ばれていた幸若丸の舞は、これより"幸若の舞"として世に知られ繁昌するようになった。

 やがて名手として知られる幸若丸の孫、4代目山本四郎左衛門。彼が起こしたのが大頭流である。そして天正10年、代々継がれてきた幸若舞は、当時の筑後国山下城主、蒲池鑑広が京都から四郎左衛門の孫弟子にあたる大澤次助幸次を呼び寄せ、この筑後にも幸若舞が根をおろすことになる。

 大澤次助幸次から数えて6代後の家元の弟子にいよいよ、松尾平三郎増墺(ますおき)が登場。彼が大江村の人間なのであった。

 幸若丸12代目家元松尾平三郎増墺は、積極的に大江の人々に舞の伝授をしようと努めた。増墺の家は大江でも有力であったため、増墺に幸若舞を習えば、なにかと都合のよいこともあろうと密かに思った村人もいたかもしれない。次々に弟子にと詰めかけてきた。一方では、新しい伝統芸能に押されて柳川城下はもとより、各地で幸若舞は息も絶え絶えである。その中で、唯一、幸若を舞う大江として広く名が高まり、村人たちは誇りとしてこの舞を大切に継いでいったのである。」・・・と幸若舞を研究されている三池さんのお話を伺うと、以上のようなストーリーができあがる。筑後流伝以前については信憑性が薄いらしいが。しかし幸若舞にますます浪漫と神秘を感じさせる伝説は、なかなか興味深い。

日本芸能の原点といわれる幸若舞。幸若丸伝説のかなたから。今も、この大江に行き続けている。 織田信長が桶狭間の戦いの前に舞ったのが幸若舞であった、というドキドキするようなお話も飛び出したが、「定かかどうか確かめる術もない」と三池さんはタイムマシンにでも乗りたいような表情である。

 ただ確かなのは、京都を中心に日本全国に広がっていた幸若舞は、今では大江にしかない、ということ。なぜ大江にだけ、というのがまた謎めいたところで、前述の物語にある村内の力関係が支えていたのか、土地柄にマッチしたのか。これも推測でしかないが、大江の人々によって懸命にに守り通された"大江の誇り"であったような気がする。

 もともと40数曲あった中から、現在語り伝えられているのは8曲のみ。戦記ものがほとんどである。難解な台詞と節回し。700年の時を経て、確実な記述もないままに、家元から弟子へ、口から口へ。原型をたどれば、それこそ伝説かもしれない。そう考えると、家元や幸若舞に携わる人々へ課せられた役目は重要だ。伝承に尽くした人々の熱い思いと努力に心が打たれる。昭和51年に国の重要無形文化財に指定されたが、生活も文化もすべてが流れてしまう世の中で、この舞だけは遠い時をとどめている大変貴重なものだと気づく。信長はどんな幸若を舞ったのだろう。

 台詞や独特の節を耳で、立舞を身体で覚え、やがて"覚えること"から"磨く"ことへ。20年、30年重ねなければ、会得には達することができないという。教える者と習う者の心の和と信念が、大江の幸若舞を咲かせ続けてきたのである。家元から弟子へ。こころから心へ。現在の幸若丸たちに託される。これからの幸若舞。

 大江では今、子供たちは小学校5年生になると幸若を舞う。彼らの中でまた、新しい物語が生まれる。変遷の結果、幸若舞は変化していくかもしれない。でも、芸能は生き物だ。変わるのではない。今生きている幸若舞をいかに価値の高いものとして残していくかということ。大江の幸若舞の可能性はここにあるのではないだろうか。少し緊張しながら声高々に舞う、たくさんの幸若丸たち。まっすぐな瞳の奥に、黎明が輝いている。

 毎年1月20日。大江天満宮で幸若舞が舞われる。舞の中心となる語り手は「太夫」「シテ」「ワキ」。この3人が朗吟の主役となり、さらに囃子手として「鼓方」が加わる。演技はこの4人で構成され、その他に「後見役」が舞台に上がる。

 空に響く鼓の音、声高々に語られる戦国の物語。一瞬、時が止まり、凛とした空気があたりを包む。ふと気がつけば、境内に雪がちらつき、それでも、すべての視線はただ一点、舞台に注がれる。そこには大江の人たちに混じり、日本各地からやってきた人々の姿がある。この大江でしか見ることのできない舞を見るために。

「幸若舞」について

「幸若舞」は中世芸能の一つである曲舞(くせまい)のひとつで、室町時代初期に越前の桃井直信(幼名・幸若丸)によって始められた語りものと呼ばれる古典芸能です。はじめは、祝賀の意味合いが強いものだったのですが「平家物語」や「曽我物語」などの軍記物を取り入れた曲目が多くなってくるにしたがって、戦国時代の武士の間で愛好されるようになりました。
幸若舞のシテ・ワキ、鼓方 
演じ方

演じ方では、立方は太夫・シテ・ワキの3人で、ほかに鼓方が一人います。服装は、太夫が素袍、立烏帽子に小刀を帯びています。シテ・ワキは、同じ素袍に横サビの折烏帽子、同じく小刀を携え、右手に舞い扇を持ちます。鼓方は、黒紋付に麻裃、長袴といういでたちで、幕の前に退いて床几に腰掛けて鼓を打ちます。舞は、太夫の朗吟をシテとワキが助吟するというかたちで進行します。

大江天満神社 舞堂 天明7年(1787年)に瀬高町大江に大頭流幸若舞が伝わり、「大江のめい(舞)」として、現在まで受け継がれてきました。大江の幸若舞所伝の台本には演目として42番の曲が記されていますが、現在では「日本記」「濱出」「那須与一(扇の的)」「八島」「安宅」「高館」「和泉ヶ城」「夜討曾我」の8曲だけが伝わっています。

 文化8年(1811年)に曲亭馬琴が書いた『烹雑の記』に「幸稚」として瀬高の幸若舞のことが書かれています。

「幸若丸句節舞踏に妙なるよし、軍記に見えたり、其余波諸国にある歟、江戸人は知らざるもの多かり。しかるに今も筑後山門郡大江村なる農家に、代々幸若の舞を伝へたるものあり。又その近辺永田という所にも、彼派わかれて太夫かかり、何かかり(この名をわする)などいうありて、酒宴の席、月祭、日祭、などいふおりには、心招きてもてはやしつつ興ずる舞なるに、今幸若の舞といへば、扇拍子にてうたうめり。これを舞とこころえたるは僻事なるべし。この大江にはむかしより伝へもてる烏帽子装束あり。ふりたる幕を張り、鼓うちならして立舞と聞り、職人絵尽につ載たる舞々の画像おもひあはすれば、よくこれにかなへりとぞ、西原主話談せらる」(以下略)

問い合わせ先
瀬高町役場商工観光課 ・・・電話 0944-63-6111
瀬高町 歴史資料館   ・・・電話 0944-64-1117
LINK        瀬高町公式ホームページ「幸若舞」
http://www.town.setaka.fukuoka.jp/kouwaka/index.html